すべてに「尺度」をしっかりと感じること。
この世に生を受けた、
27年目の桜と、
28年目の桜は、
どちらが春に、より力強く花を咲かせるのでしょうか。
エネルギーとは、
若々しさなのでしょうか。
それとも繰り返した生命の経験値、なのでしょうか。
若いエネルギーの方が強いのでしょうか。
年をとったエネルギーの方が強いのでしょうか。
・・・僕が世の中を俯瞰的に見がちなのは、
自分の出来の良さではなくて、
自分が出来損ないだからこそ、取り繕うことに必死だからなのだ。
昔は、ただきっと「意地」だけで、自分が周りよりも秀でていた。
けれど今は、自分を冷静に俯瞰して、そして世の中も、俯瞰する。
みんなゴミに見えて、
でも、
みんな宝物にも、見える。
なんでだろう。
そんな矛盾の中でも、
何故かこんなにも精一杯生きる意味は、
結局いつかは自分自身に還ってくるのだ、
と信じている。
現に、還ってきたと、実感しまくっている。
と、思う。笑
・・・明日は、
姉の2回目の命日だ。
28歳で死んだ姉と、
28歳で今、恥ずかしげもなく生きている僕が、
すべての尺度の中で、唯一交わるのが、今この瞬間だ。
他人からすると、そこに「物理的な意味」はないのかもしれないけれど、
「物理的ではない意味」が、僕にはある。
姉がたった28年のその人生の中で、
それを感じて死んでいったのかは、わからないけれど、
僕は、その「物理的ではない意味」の世界で、
今、ここに生きている。
僕は、肺が癌で潰れて溺れるように死んでいった、
本当に本当に無念の中の姉のことを思いながら、
出来立てホヤホヤのお墓の前に立ち、
彼女が、薄れゆく意識の中、
どんな思いで死んでいったのかを、
未だに、ひたすら想像をする。
それこそ、きっとその世界は、「物理的」だし、
「物理的ではない意味」に溢れていたのだと思う。
「生きたい」と願っても叶わないと悟った瞬間、
たくさんの「尺度」が人生を図り出すのでしょう。
だから、僕の中で、
「生きたい」と願うことが、
希望にだけ満ちていることは、
「物理的な意味」も、「物理的ではない意味」も持たない、
シンプルだけど、寂しいことなのだと思う。
「尺度」を持つことのみが、人の心に触れる。
「尺度」だけが、人に、ノスタルジックを与える。
いつか、できればいいや。
いつか、はできるようになるだろう。
いつか、できるようになりますように。。?
なんて、そんな尺度のない人生を歩んでいたら、
この世に本当に沢山の愛の中、
尊いいのちを与えられたことに対する意味も持てぬまま、
無垢な小学生に潰されるアリのように、
保健所で無意味に殺されてゆく犬や猫のように、
ただ、散りゆくいのちと、なってしまうのだ。
人生に「尺度」を感じることは、
「物理的な意味」も、「物理的ではない意味」も、
そのどちらをも凌駕する意味を持つのだと思う。
「何をそんなに生き急いでるの」
と「物理的な意味」の世界の方々に怒られるかもしれないけど、
特段急いでもないし、慌ててもいない。
僕はただ「尺度」を感じているだけだ。
常に測っているだけなのである。
1日1日を過ごしていく中で、その「尺度」と照らし合わせながら、
納得して生きている。
この世界を生きていく中の、
たくさんのくだらないの中に、
「物理的な世界」があればいいし、
「物理的でない世界」もあればいい。
たくさんのくだらないの中に、
幸せ、があればいいし、
幸せじゃない、もあればいい。
「尺度」を感じていたら、それすら全て、
幸せなことなのです。
鳥山真翔